2017年6月16日金曜日

ベルクソン(竹内 信夫訳)/『思考と動くもの』

思考と動くもの (新訳ベルクソン全集)
アンリ ベルクソン
白水社
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2017年6月吉日

読者のみなさま、関係者のみなさまへ

 長きに渡り『新訳ベルクソン全集』をご購読賜り、厚く御礼申し上げます。この度は第7巻『思考と動くもの』の刊行が大幅に遅れましたことを深くお詫び申し上げます。刊行にあたり、いくつかの点につきましてご理解を賜りたく、読者のみなさま、関係者のみなさまにお伝え致します。

 既刊では「訳注」を「原注」と併せ付してまいりましたが、本巻においては、訳者(竹内信夫先生)の健康上の理由により、「訳注」は断念せざるを得ませんでした。みなさまのご期待に添えませんことを重ねてお詫び申し上げます。

 同様の理由により、現時点では、次回以降の配本(第6巻『道徳と宗教の二つの源泉』及び「別巻」)の見通しが立っておりません。つきましては、訳者と話合いの結果、今回配本をもちまして刊行をいったん中止させていただくことに致しました。みなさまのご賢察を願い上げ、ご寛恕を乞う次第です。

株式会社白水社

 『思考と動くもの』の予約が開始されて本が書店に並ぶまでに何年経っただろうか。
 おおかた予想はついていた経過であるが、実際に知らせとなって目にすると残念でならない。竹内 信夫氏の回復を心よりお祈り申し上げます。

ベルクソンの「自作について」


 『精神のエネルギー』に続く自作についての一般向け概説と、講演の記録である。相変わらず上手く書く。『序論』二編では『意識直接与件』から『創造的進化』まで一直線に議論を進めている。一冊の概説でも苦労しそうなものなので、到底真似できそうもない。

 実は『思考と動くもの』を読むのは二回目。あんまり出てこないので、原章二氏の訳(ただし邦題は『思考と動き』)で読んだのだった。ベルクソン書籍初の読み比べとなるが、訳文の出来不出来については何とも言えない。竹内訳の方が読みやすかったが、それは原訳の予習効果の表れと見るべきで、そう考えてみると原訳も優秀なのかもしれないのである。ちなみに、値段は。原訳の方が安い。「水のなかに水素があるというどころの騒ぎではない(拙訳がその程度であるとうれしい)。421頁」原氏は、小林秀雄のファンでもあるようだ。

小林秀雄の『感想』とベルクソンの影響について


 小林秀雄の『感想』は結局のところ何が失敗だったのだろうかとは、考えたこともなかったのだが、今回の読書で何となくヒントを得たような気がした。『感想』とは、小林秀雄によるベルクソン論のことである。いつものように、彼流にベルクソンについて書いている。断簡零墨に至るまで探し回り、厳封を内容とする哲学者の遺言を見て恥ずかしく思うところまで書くのが彼流である。ベルクソンの仕事の基本的な野心は、悟性が意識とている「意識」の解明にある。「意識」とはなにかという点については、ベルクソンの著書を読んだ方が早いしわかりやすいのでそちらを参照していただきたい。ここまでは、まぁ、あるかもしれない話なのだが、問題は仕事の方法であった。ベルクソンの主張は、意識というものを解明するにあたっては、既存の哲学システムや科学のやり方では全然役に立たないと言う。むしろ、意識してかいないかわからないが、先人たちが避けて言ったところに意識を解くカギがあると言っている。小林のこの点の扱い方は、気の毒で、生まれついて持っていた逆説的筆致が完全に裏目に出たといってよいように思われる。ベルクソンは、『序説』を見るとよくわかるのであるが、論争のためにこのような事を言い出したのではなく、研究上の必要、あるいは、論文が論文として必要な意味伝達能力を持つための明暗対象表現、いわば理解促進のための一つの文学的技巧だったのではないかと思われる。実際、呑気な読者たちの眼には当時最先端の連中の鼻をへし折ったと見えて、ときの人となったベルクソンは、その騒ぎように困惑しているのである。「本当に才能のある人は、才能を持つ事の辛さをよく知っている。併し、そういう人は極めて稀れだ。才能の不足で失敗するより、寧ろ才能の故に失敗する、大概の人はせいぜいそんな所をうろうろしているに過ぎない。(『カラマアゾフの兄弟』113-114頁)」という小林秀雄の文句が正確に響くところであろうか。才能とは、手癖のことではない。

 ベルクソン論の補強は少なくとも科学の瓦解を語るほか方法がなかったようだ。瓦解した後に、小林は、魂の研究の有効性について云々するつもりだったかもしれない。――しかし、ベルクソンが固く黙ったところを、我々はベルクソンの腹案として語って良いものかどうか。

 『感想』なんかを見なくとも、小林にもたらしたベルクソンの影響は見ることができる。私には、こちらの方がよほど美しく思われるのだが。

しかし、その自由意志的行動をそのものとして認知するためにはどんなものであれ創造とか、新しさとか、予見不可能なものなどを認知するためには、我が身を純粋持続のなかに置き直さなければならないのである」『思考と動くもの』より「序説」

 もちろんそれは、ランボオの『地獄の季節』に「ぶん殴られた」経験がものを言い、ベルクソンが理論的に先鞭をつけたものである。ベルクソンの共鳴者のひとりであるポール・ヴァレリーによって探索された純粋持続による批評精神は、R.N.F.誌上を通じて小林秀雄に感染し、日本語においても実現した。彼が執拗に繰り返したのは、本文引用であるが、これは、ながれていく人生の中で、読書が読書として接する場面は、本文を目で追っている時だ(あるいは作家が書く時が文学芸術の同時性だ)というのが着想である。おもしろいのは、音楽を語る時にも応用がなされているという点で、メニューインの演奏風景をリアルタイム風に描写している。『ペレアスとメリザンド』も、メーテルリンクがどうのという話も面白いが、やっぱり彼のオペラ鑑賞スタイルの方が面白いのである。如何にも鑑賞しているという空気の感じが伝わってくるのがここちよい。生々しい手触りの文学。私を強く魅惑した点は、ひとえにこの点においてであった。

技巧的には批評の中に現在分詞を取り入れた点、無論これは文体改革なのであり、彼が我が国の文学にもたらした功績の一つといえよう。

 さて、一筋縄ではいかないのが、解説家としての彼の側面である。死んだ経験たる知識、知性の凍結乾燥物たる知識を書く意味とは? これにもちゃんとしたベルクソン的意味があるのかもしれない。すなわち、「現在の発見は遡及しない」。以下にベルクソン自身の例を引用するが、私はこれに困惑した方の人間である。

 ごく単純な例を一つ挙げれば、十九世紀のロマン主義をフランス古典主義時代の作家たちにすでに見られたロマンティックな側面に結び付けることは、今日においてはごく自然なことであろう。しかし、その古典主義作品の示すロマンティックな様相は、十九世紀ロマン主義が現れた後の遡及的効果によってしか、明らかになることはなかった。もし仮に、ルソーやシャートーブリアン、ヴィニーやヴィクトル・ユーゴーがいなかったとすれば、それ以前の古典主義作家たちにおけるロマン主義は、認知されなかったばかりではなく、現実的にも存在しなかったであろう。なぜなら、古典主義作家たちに見られるロマン主義というものが現実のものになったのは、彼らの作品の中からある一つの側面を切り取ることによってであり、その切り取りは、特殊な形相ともども、ロマン主義の出現以前の古典主義文学には実在していなかったからである。それは、空に浮かぶ雲を見て、芸術家が空想の赴くままに思い描く戯れのデッサンが実在していないのと同じことだ。その雲に描く芸術家が描くデッサンと同じように、ロマン主義は遡及的に古典主義に手を加えたのである。遡及的に、ロマン主義は過去の中に自らの予兆的姿を想像し、先人たちによって自らを説明しているのだ。(同上28頁)

 作家が創作していたころが現在だった時のことを読者に伝えなければ、書くことの同時性は伝わらない。例えば、ドストエフスキーは「実存主義」という言葉とは無縁だっただろう。知識で充満した現代人の頭に対してさらの読書を促すには、そういう事を説く必要があったのである。ドストエフスキーの難しさは、批評的専門用語から離れたところから始まる、小林秀雄のドストエフスキー論の敷居である。

 そう意味では、私のこの小林秀雄論は失格であろうが、言い訳紛れに次のことを言っておいて終わりにしたい。小林秀雄は、自身の大きな作品に対しては、大小様々な感動がそのまま着想となっている。上で、彼の論文はベルクソンの理論の敷衍であり、ヴァレリーの批評精神の変奏ということを書いたが、これは厳密でもなければ、正確でもない。これら三つの要素は互いに欠くことのできない三つの柱であり、彼の珠玉で浩瀚な批評文学の世界を支えているのである。

小林秀雄全作品〈1〉様々なる意匠
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2017年5月19日金曜日

バルザック/『ソーの舞踏会』等

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 バルザックの『夫婦財産契約』


 2014年発売とのことだから、『ソーの舞踏会』から3年の間放置していた計算である。『ソーの舞踏会』があまりおもしろくなかったことと、『夫婦財産契約』という題名からおもしろい話を期待できなかったから手を出さなかったのであるが、最近読んで、これがとんだ誤りであったことを思い知ったのだった。

 夫婦財産契約とは、私が読んだ限りでは、次の代への相続財産を結婚時に決める契約のこと。結婚と同時に両家の財産が一つになって次の代へと送るという意味で、掛け金(この言葉が適当かどうかは知らないが)の交渉は、莫大な資産が一挙に移動するという性格をもつために、人生の一大事であった。現代では相続争いの類が似通うるのだろうか。現代日本においても結婚相手の財産は非常に重要な判断材料ではあるが、とはいえ法的に財産の移動が義務となっているわけではない点で、まだまだ愛の存在を仮定しているのである。ともあれ、当時のフランスの結婚は、制度の上で財産の結婚を意味していたのである。

 バルザックはこの制度に取材して、フランスにおける結婚の悲劇を描いて見せた。一人の青年が、コケットな浪費家の女との結婚する、そして幸福な家庭生活を夢見た、『夫婦財産契約』のあらすじである。これは喜劇かもしれぬ、しかし、ここに悲劇がある。

 バルザックの書き方は非常に大雑把に見えて、必要な情報を詰められるだけ詰め込んだという執筆の性格ために、あの紙面にびっしりと並んだ活字に慣れてしまえば過不足なく見えてきて、読み味は案外に早い。事件の概要を読者に対して鮮やかに提出すると同時に読者に対して余計な共感を登場人物に対して起こさせないのが特徴である。そこにあるものはジレンマ。世間にもまれた主人公。これは社会派としてのバルザックの変わらないやり方だ。「さて、事件はご覧の通りである。ところで読者諸君、この男をどう思う?」。

 この男とは、ポール・ド・マネルヴィル伯爵である。彼は、結末にあって、すべてを失った。父親から譲り受けた莫大な財産はすべて競売にかけられた。妻は間男の子供を孕んだ。次に引用するのは結末の一場面である。
「(中略)もう僕は伯爵じゃないよ、マティアス。僕のパスポートはカミーユという名前になっている。僕の母親の洗礼名さ。それに僕には知り合いがたくさんいるから、僕のためにまたいろいろ運を開いてくれるだろう。商売は最後の手段だよ。いずれにしても僕はそれなりの金をもって船に乗るから、ひと勝負してひと財産作るつもりだ。」(248頁)

 話し相手の老人マティアスは管財人で、既に元伯爵が小銭一枚持っていないことを知っている。
「そのお金はどこにあるんです?」
「友達が送ってくれることになっている。」
 老人はその友達と言う言葉を聞いて、思わずフォークを取り落とした。もちろんからかうためではなく驚いたのでもなかった。その姿は、あてにならない幻想を抱いているポールを目の当たりにして、彼の悲痛な思いを表していた。というのも伯爵が堅固な床と見ているところに、老人の眼は深淵を見通していた。(同上)

 いかにして、マネルヴィル伯爵は商売のためカルカッタ行の船に追いやられたのか。各自本文にてご確認いただきたい。作者の筆には脂がのりきっている。

 なるほど確かに、作者が最後の行に記す通り、彼はおろかで弱いのであり、この期に及んで自分のしたことを理解していないのであるが、それは主人公が一貫して結婚制度を人間の良心に係る家族の誕生と解釈していた点が具体的な「おろか」の最大のものなのである。結婚制度にこれほどまでに異様な金銭上の利害がからみついていることに目を向けようとしなかったためであるが、しかし、これにはただし書きが必要であろう。

 主人公の金銭感覚はたしかに貴族的ではあるが、野心に目覚めた彼は地盤固めのために土地改良を企てているくらいなので、無関心というわけではなく、この制度を十全に理解しているのであれば、社交場での成功と同様に大金をせしめていた可能性だってあった。どうも、知っていて、何もかも理解して、幻想的な良心というものを信じていたようにしか思われないのである。よりにもよって、浪費の化身たるエヴァンジェリスタ親娘に。
 バルザックの着想は明らかである。彼もまた結婚の理想と現実に苦しんだ一人ではなかったか。

2017年2月28日火曜日

国民文化研究会(小林秀雄)/学生との対話

学生との対話 (新潮文庫)

小林秀雄の対話編への一言

 小林秀雄の対話編が出た。対話編だから、文章とは違うわけである。「はじめに」にあるように、小林秀雄は、書くこととしゃべることを明確に分けて書いていた人で、自分の講演記録が本に載ると、如何にもうまくしゃべっているがそうではない、あとで手を入れるのです、とかなんとかそういう風な事を書いていたはずである。講演者の手が入っていない没後出版のものは、どうも全集の従物として読んだほうがよさそうである。

 講演と言えばおしゃべりが中心なので、文章に比べてどこか柔らかいイメージを持つ人がいるかもしれないが、そういうわけでもない。当然、講演と質問会は世評ある文士の書く物を前提として話が進むので、話はやや専門的である上に、断片的な話題が多い。実際、中身はベルクソン、ドストエフスキー、本居宣長など、全集を読み終わった人向けというべきものが並んでいた。小林秀雄がどんなものを書いていたのかとか、どんな人物なのかを知るには、新潮社から出ている文庫版アンソロジーをお勧めします。小林はしゃべりより書く方が上手い。

 この本の多くを占める対話編には、いろんな事が書いてあった。私にとっては、既存話題への原著者による具体的な補足一行たちであった。 
 どうやら私は後ろの方で國武氏が抱いているような感動は無いようであるし、かといって、またその後ろにある後書きのような解説家になることもできないようである。以下に気になったところを書いておくにとどめる。

ドストエフスキー


小林秀雄著『カラマアゾフの兄弟』
 小林秀雄の書いたものの中で、私が一番好んだのはドストエフスキー関連の文章である。全集(第六次)を集めるのにも、ドストエフスキーが絡んでいるか否かで収集の優先順位を付けていた。これら文章が他と違うのは、論文の執筆者が、まるで刺し違えんばかりの熱気を持って対象を取り上げると同時に、燃え上がるような洞察と名刀のごとき分析を繰り広げていた点である。結論などなくてもよい、対象もドストエフスキーでなくともよかったかもしれない。理論のもたらす眩暈と心理的に喉元に迫る筆致。散文が生んだ精神の殺陣、これは私の知らなかった世界であり、文学の可能性を具体的に示すものだ。小林秀雄の散文の中でも無類の魅力を封じた一連の作品は、今でも私が文章を書く上で模範としているものの一つである。

 一方で、この一連の作品はもう一つの傾向を持っている。未完が多くみられるという点である。上で引用したのは、傑作『カラマアゾフの兄弟』であるが、この一文の後は空白である。これだけ読者をあおっておいて(未完)は勘弁してほしい。作の芸術的側面を犠牲にしてまで沈黙を守らねばならなかったのは

ベルクソン

 この本には講義『文学の雑感』と『信ずることと知ること』の二つが載っている。『信ずることと知ること』については、全集所収のものとは別の初稿版(『信ずることと考えること』)も載っていて興味深かった。本筋に大きな変更はなかったが、細かいところは変わっていて、例えば、ベルクソンの『精神のエネルギー』に含まれているロンドンでの講演を引き、科学が計量風のやり方で精神や意識の領域に入ってくるのはおかしい、と言うところが詳しくなっていた。小林は、脳髄の原子の運動を測れば人間の運動を読み取ることができるという心身並行論からくる仮説を難ずる。そもそも、彼は精神の問題を脳の動きの問題に置き換えたことが気に入らないのである。「科学は君の悲しみを計算する事はできないだろう」云々。

常識で考えてみよ。一体この自然には、無駄というものがない。ある一つのものが、片方では脳髄の原子運動に翻訳されて表現される。同じものが片方では意識の言葉となって表現される。一体自然にとって、こんな贅沢は許されるだろうか。もし本当に脳髄の運動と、人間の意識の運動、精神の運動が並行しているならば、どうして自然はこの二つの表現を必要としたのだろう。それなら、精神なんかいらないじゃないか。盲腸は人間の器官として役に立たない不用のものだから、なくなってしまったじゃないか。無駄なものは、とう昔になくなっているはずではないか。第一、習慣になれば意識などいらないでしょう。そんな時には、諸君の意識というものはすっかり退化して、なくなっているでしょう。(『学生との対話』40頁)


 どういうわけか、この部分が削除をこうむっていた。何か指摘をうけたのかもしれない。この一文に誤りがあったとしても、対人関係は人工衛星を飛ばすようにはいかない。我々は人と対面する時、ある精神と対面しているのであり、それを原始人並みの観察と対応で何とかしのいでいるのが現状であることに変わりはないのである。