2018年1月3日水曜日

夏目 漱石/『道草』

道草 (定本 漱石全集 第10巻)
夏目 漱石
岩波書店
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 年末年始の休みはこれを読むことに費やした。費やしたと書いてしっくりしたので、時間を無駄にしたと感じているのかもしれない。やっぱり有意義だったかもしれない。



 『道草』を書いた漱石は、すでに『心』を書き終えた身である。作家生涯最高の作を書き終えた漱石が見詰めたのが、悩める青年時、教師として道が定まりかかった彼の前半生であった。

2017年11月13日月曜日

阿部謹也/『物語ドイツの歴史 ドイツ的とは何か』

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 ドイツの歴史と言っても漠然と掴みがたく、また、きっと「ドイツ」と言っても地域ごとに緻密な経緯でもって今日にいたっているはずである。徳川家康が世界史の登場人物ではないのを一つとってみれば、高校課程の世界史の教科書でドイツにおける徳川家康級の人物が省略されているものと見るのが妥当であろう。そこで一つ、ドイツ史に詳しいとの評判の先生の本で勉強してみようという気になった。『物語ドイツの歴史 ドイツ的とは何か』は、そういう読者の要求を満たすものであっただろうか。

通史の紹介として


 駆け足ながら通史を知るという意味でが、それなりに役に立つものであった。私が何も知らなかったからというのもあるのだろうが。殊に、国家と教会の関係、曖昧で分かりにくいルターの解説は特筆ものである。ただ、通史の紹介は著者にとって余技の範疇であり、阿部謹也氏の企図、企図と言うより野心と言うべきだろうが、それはドイツの通史を読者に届けることにとどまらず、ドイツの精神史をつまびらかにして、ドイツがこれから取るべき道を提案するということにある。そこで採用するドイツ的概念に「アジール」を挙げ、多民族国家ドイツ、国際的に開放的なドイツを歴史的に実証する。私は、この論証はもっともだとは思いつつも、単一領域としてのヨーロッパ連合成立を目指す結論ありきの物語とも思った。数百年前の事実を持ち出して来て、未来志向というのは無理があるのではないか。

世界共和国的話


 国家と言うと何か抽象的な団体の集まりに見えるのかもしれないが、国家とは国民を支配しているわけで、国家の支配とは、国民の生活と密接にかかわって来ているものだ。ごみの出し方一つとっても、おびただしい数の改正がなされてきたはずである。そこには生活の手垢すら見える。それを歴史的背景という理由だけで、政治家の首のすげ替えのように変更するのは、あまりに簡便で無責任な物言いである。いったい何を基準に統一するのか。その歪みや軋みが所々で現れているのは、ご覧の通りだ。さて、歴史的背景と言われれば、我々は、国家共存を前提に社会の国際化を進めてきたのではないか。国家の併存が国際社会にとって不便であると同時に不均衡をもたらすことはだれの目にも明らかである。しかし、国際社会成立の大原則として国家が今まで生きながらえてきたのには、理由があるはずだ。最後まで譲ることの出来ない何かが。越えてはならない一線が。

 国際社会の問題とは、究極的には地域のごみ出しの問題と同様、近隣住民との付き合いが発端である。高等遊民どもは、金で解決して国際人を気取っていられるのだろうが、そんな余裕はだれにでもあるわけではない。そもそも、言葉が通じない。言っても理解されない。外交官並の努力を生活に取り入れろというのはあまりに酷である。

 それでも、阿部氏の情熱は本物であると言わねばならない。この意図は東西ドイツ統一の現実をその目で見ている。それでも無理筋を通したい。

2017年8月26日土曜日

トルストイ(望月哲男 訳)/『アンナ・カレーニナ』

アンナ・カレーニナ〈1〉 (光文社古典新訳文庫)
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光文社
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 『アンナ・カレーニナ』の再読


 最高級の文学と言えども、再読する人はまれだそうだから、その稀な人になってみたいという希望から、『アンナ・カレーニナ』をもう一度読んでいる。とてもおもしろい。往時の感動を確認するとともに、新たな発見もあってさらにおもしろくもあった。読み終えたのは、まだ第二巻(光文社版準拠)の70%ほどでだけれども。

トルストイの見えざる御手


 トルストイを論じて、嫌悪を抱かざるを得ない人間というものは存在しており、私などは、あのような無害かつ洗練の極みのような芸術作品に、いったい何の欠点があるのかと思ったものだったが、再読して、彼らの言うところがわかったような気がした。

 アンチ・トルストイの言い分は一定の傾向がある。その矛先はトルストイ読者を説き伏せようとする点に集中しており、それはいわば「トルストイの見えざる御手」のようなものによって、読み手は感動しながら、強引に丸め込まれているという感覚を否応にも感じるのが気に入らない。そして内容も気に入らない。そんなに結婚制度の遵守が重要なのか、自由恋愛を禁じて満足らしい云々、というわけである。後期の露骨な説教と比べれば狡猾な手段というわけである。今回これをはっきりと感じたものだった。

 この時期のロシア文学は、全て傾向的な作品であり、ドストエフスキーやツルゲーネフに至るまで、文学とは多かれ少なかれ自らの思想の宣伝場所であったというのが当時の常識だが、トルストイにおいても、しかも、社会事業に深刻な関心を寄せる前のトルストイの作品にみられるとは思っても見なかったものである。それほどまでに、この作品の思想は普遍的であると同時に、芸術上の陶酔力は強い。

 「トルストイの見えざる御手」と上で書いたが、なぜ見えないのだろう。おそらく、作品とトルストイの境界があいまいだからだ。作品は、物理運動のように心理は展開され、アンナはヴロンスキーを知らぬ間に求めている。またどうように、文豪は、登場人物たちの心理を介して、ペテルブルクの軽薄な社交会なり、地平線の彼方にまで広がるロシアの大平原を書いている。地の文での登場人物らの心理の世界と作者の言葉の境界はあいまいであり、作者は登場人物が感じ考えていること全て、過不足なく、そして、登場人物らが気が付くことのない心理の襞にまで言葉をあてて、喜びも悲しみも、草原や日の出と言った自然に至るまで描き上げる。トルストイの描写は、どれをとっても見事だが、彼の描法は生理的なものであり、肌触りと五感の中にある、これが読者に非常な臨場感を齎す。だいたい描写とはよくできていても写真にとどまるか、美文にすぎない、ありていに言えば、そよそしくなってしまうものだが、情景の生理的な認識を全く自然に文章として成立させることがが可能だったのは、作者が登場人物の内面世界を前提にして筆をすすめているがためである。これが小説の構造を覆い隠す神秘のベールとなっている。
 トルストイがはっきりと与えるのは”結末”である。意志に対する罰である。小説の巨大な構造はアンナを列車の前に引きずり出す。『戦争と平和』以来変わらぬ彼のやり方である。
復讐するは我にあり――『ローマ人への手紙』