2018年2月12日月曜日

リチャード・スミッテン(藤本直 訳)/世紀の相場師ジェシー・リバモア



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大相場師の人生と仕事


 楽して儲けたいという気持ちで株に手を出し、大損こいて退場するのが多くの人間のたどる道なのだそうで、相場の勝者は驚くほど少ないらしい。ジェシー・リバモアという人物は、題名にもあるとおり、そんな相場で暴利を得たことで著名な相場師であり、最も有名なのが1929年の大恐慌の際に空売りで莫大な利益を上げたことなのだそうだ。リバモアの生涯は、株式をはじめ商品先物での成功とその研究、そして、私生活面での行き詰まりと自殺に要約される。立志伝中の人物は、どうしてこうも死に場所に不幸が漂うのだろうか。私生活面については、前情報なしで読んでいただいた方が面白いだろうから何も論評しない。それよりも、興味深かったのは、リバモアが自分の相場師としての仕事に対する情熱と探求の精神だった。

 リバモアは、自分の仕事と成功について、たゆまぬ研究と忍耐の結晶であり、失敗の原因は市場ではなく自分(の弱さ)にあると説く。彼の語り口は、まるで弁論術について説くキケローであり、異様に力強い自信にあふれた賢者のような物言いである。
 彼は四度破産している。こうした自身の経験から「なぜ株は楽して儲かると言うイメージが付きまとうのだろうか」と嘆いているほどである。少なくとも、彼は自分の成功の要因を運であるとは全然書いていないことは注意しても良いではないか。私も読後感の勢いで、こんなことを知った口でペラペラ書いてみたものだが、読む前はこんな真面目な本だとは思ってもみなかった。もっと軽いフワフワした雰囲気の読み物だと思っていたものだ。

 この本にはリバモアの売買手法や見解も載っていて、原因はともかく事実の観察から法則を抽出する科学的なものといえよう。「有料株式投資講座なんぞをやっている連中はそのやり方で投資して成功すればいいわけで」という常識的なものから、「底値を狙うやり方は皆が好んでするがダメである」「投資で値が高すぎるもしくは安すぎることはない」等、常識的な考え方と微妙なズレがあるものなど、いろいろと書いてあってどれも興味深い。また、リバモアの個々の株式の銘柄についての見解は、ちょうど「文は人なり」に通ずるもので、文士目からすると文章は人の姿をとるのに似て、「株は人なり(上手くないが)」というわけで、株式の値動きも、人の顔や性格を見るように見えるのだそうである。社会を見渡すと、人だけでなく、物や組織の顔や性格を把握する必要が多いものだ。株にも顔があるという見解には親近感を覚える人は多いのではなかろうか?
 この本は、奥の深い業も深い株の世界を覗くには良い入門書でありましょう。


2018年1月3日水曜日

夏目 漱石/『道草』

道草 (定本 漱石全集 第10巻)
夏目 漱石
岩波書店
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 年末年始の休みはこれを読むことに費やした。費やしたと書いてしっくりしたので、時間を無駄にしたと感じているのかもしれない。やっぱり有意義だったかもしれない。



 『道草』を書いた漱石は、すでに『心』を書き終えた身である。作家生涯最高の作を書き終えた漱石が見詰めたのが、悩める青年時、教師として道が定まりかかった彼の前半生であった。

2017年11月13日月曜日

阿部謹也/『物語ドイツの歴史 ドイツ的とは何か』

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 ドイツの歴史と言っても漠然と掴みがたく、また、きっと「ドイツ」と言っても地域ごとに緻密な経緯でもって今日にいたっているはずである。徳川家康が世界史の登場人物ではないのを一つとってみれば、高校課程の世界史の教科書でドイツにおける徳川家康級の人物が省略されているものと見るのが妥当であろう。そこで一つ、ドイツ史に詳しいとの評判の先生の本で勉強してみようという気になった。『物語ドイツの歴史 ドイツ的とは何か』は、そういう読者の要求を満たすものであっただろうか。

通史の紹介として


 駆け足ながら通史を知るという意味でが、それなりに役に立つものであった。私が何も知らなかったからというのもあるのだろうが。殊に、国家と教会の関係、曖昧で分かりにくいルターの解説は特筆ものである。ただ、通史の紹介は著者にとって余技の範疇であり、阿部謹也氏の企図、企図と言うより野心と言うべきだろうが、それはドイツの通史を読者に届けることにとどまらず、ドイツの精神史をつまびらかにして、ドイツがこれから取るべき道を提案するということにある。そこで採用するドイツ的概念に「アジール」を挙げ、多民族国家ドイツ、国際的に開放的なドイツを歴史的に実証する。私は、この論証はもっともだとは思いつつも、単一領域としてのヨーロッパ連合成立を目指す結論ありきの物語とも思った。数百年前の事実を持ち出して来て、未来志向というのは無理があるのではないか。

世界共和国的話


 国家と言うと何か抽象的な団体の集まりに見えるのかもしれないが、国家とは国民を支配しているわけで、国家の支配とは、国民の生活と密接にかかわって来ているものだ。ごみの出し方一つとっても、おびただしい数の改正がなされてきたはずである。そこには生活の手垢すら見える。それを歴史的背景という理由だけで、政治家の首のすげ替えのように変更するのは、あまりに簡便で無責任な物言いである。いったい何を基準に統一するのか。その歪みや軋みが所々で現れているのは、ご覧の通りだ。さて、歴史的背景と言われれば、我々は、国家共存を前提に社会の国際化を進めてきたのではないか。国家の併存が国際社会にとって不便であると同時に不均衡をもたらすことはだれの目にも明らかである。しかし、国際社会成立の大原則として国家が今まで生きながらえてきたのには、理由があるはずだ。最後まで譲ることの出来ない何かが。越えてはならない一線が。

 国際社会の問題とは、究極的には地域のごみ出しの問題と同様、近隣住民との付き合いが発端である。高等遊民どもは、金で解決して国際人を気取っていられるのだろうが、そんな余裕はだれにでもあるわけではない。そもそも、言葉が通じない。言っても理解されない。外交官並の努力を生活に取り入れろというのはあまりに酷である。

 それでも、阿部氏の情熱は本物であると言わねばならない。この意図は東西ドイツ統一の現実をその目で見ている。それでも無理筋を通したい。