2017年8月26日土曜日

トルストイ(望月哲男 訳)/『アンナ・カレーニナ』

アンナ・カレーニナ〈1〉 (光文社古典新訳文庫)
レフ・ニコラエヴィチ トルストイ
光文社
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 『アンナ・カレーニナ』の再読


 最高級の文学と言えども、再読する人はまれだそうだから、その稀な人になってみたいという希望から、『アンナ・カレーニナ』をもう一度読んでいる。とてもおもしろい。往時の感動を確認するとともに、新たな発見もあってさらにおもしろくもあった。読み終えたのは、まだ第二巻(光文社版準拠)の70%ほどでだけれども。

トルストイの見えざる御手


 トルストイを論じて、嫌悪を抱かざるを得ない人間というものは存在しており、私などは、あのような無害かつ洗練の極みのような芸術作品に、いったい何の欠点があるのかと思ったものだったが、再読して、彼らの言うところがわかったような気がした。

 アンチ・トルストイの言い分は一定の傾向がある。その矛先はトルストイ読者を説き伏せようとする点に集中しており、それはいわば「トルストイの見えざる御手」のようなものによって、読み手は感動しながら、強引に丸め込まれているという感覚を否応にも感じるのが気に入らない。そして内容も気に入らない。そんなに結婚制度の遵守が重要なのか、自由恋愛を禁じて満足らしい云々、というわけである。後期の露骨な説教と比べれば狡猾な手段というわけである。今回これをはっきりと感じたものだった。

 この時期のロシア文学は、全て傾向的な作品であり、ドストエフスキーやツルゲーネフに至るまで、文学とは多かれ少なかれ自らの思想の宣伝場所であったというのが当時の常識だが、トルストイにおいても、しかも、社会事業に深刻な関心を寄せる前のトルストイの作品にみられるとは思っても見なかったものである。それほどまでに、この作品の思想は普遍的であると同時に、芸術上の陶酔力は強い。

 「トルストイの見えざる御手」と上で書いたが、なぜ見えないのだろう。おそらく、作品とトルストイの境界があいまいだからだ。作品は、物理運動のように心理は展開され、アンナはヴロンスキーを知らぬ間に求めている。またどうように、文豪は、登場人物たちの心理を介して、ペテルブルクの軽薄な社交会なり、地平線の彼方にまで広がるロシアの大平原を書いている。地の文での登場人物らの心理の世界と作者の言葉の境界はあいまいであり、作者は登場人物が感じ考えていること全て、過不足なく、そして、登場人物らが気が付くことのない心理の襞にまで言葉をあてて、喜びも悲しみも、草原や日の出と言った自然に至るまで描き上げる。トルストイの描写は、どれをとっても見事だが、彼の描法は生理的なものであり、肌触りと五感の中にある、これが読者に非常な臨場感を齎す。だいたい描写とはよくできていても写真にとどまるか、美文にすぎない、ありていに言えば、そよそしくなってしまうものだが、情景の生理的な認識を全く自然に文章として成立させることがが可能だったのは、作者が登場人物の内面世界を前提にして筆をすすめているがためである。これが小説の構造を覆い隠す神秘のベールとなっている。
 トルストイがはっきりと与えるのは”結末”である。意志に対する罰である。小説の巨大な構造はアンナを列車の前に引きずり出す。『戦争と平和』以来変わらぬ彼のやり方である。
復讐するは我にあり――『ローマ人への手紙』