2017年11月13日月曜日

阿部謹也/『物語ドイツの歴史 ドイツ的とは何か』

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 ドイツの歴史と言っても漠然と掴みがたく、また、きっと「ドイツ」と言っても地域ごとに緻密な経緯でもって今日にいたっているはずである。徳川家康が世界史の登場人物ではないのを一つとってみれば、高校課程の世界史の教科書でドイツにおける徳川家康級の人物が省略されているものと見るのが妥当であろう。そこで一つ、ドイツ史に詳しいとの評判の先生の本で勉強してみようという気になった。『物語ドイツの歴史 ドイツ的とは何か』は、そういう読者の要求を満たすものであっただろうか。

通史の紹介として


 駆け足ながら通史を知るという意味でが、それなりに役に立つものであった。私が何も知らなかったからというのもあるのだろうが。殊に、国家と教会の関係、曖昧で分かりにくいルターの解説は特筆ものである。ただ、通史の紹介は著者にとって余技の範疇であり、阿部謹也氏の企図、企図と言うより野心と言うべきだろうが、それはドイツの通史を読者に届けることにとどまらず、ドイツの精神史をつまびらかにして、ドイツがこれから取るべき道を提案するということにある。そこで採用するドイツ的概念に「アジール」を挙げ、多民族国家ドイツ、国際的に開放的なドイツを歴史的に実証する。私は、この論証はもっともだとは思いつつも、単一領域としてのヨーロッパ連合成立を目指す結論ありきの物語とも思った。数百年前の事実を持ち出して来て、未来志向というのは無理があるのではないか。

世界共和国的話


 国家と言うと何か抽象的な団体の集まりに見えるのかもしれないが、国家とは国民を支配しているわけで、国家の支配とは、国民の生活と密接にかかわって来ているものだ。ごみの出し方一つとっても、おびただしい数の改正がなされてきたはずである。そこには生活の手垢すら見える。それを歴史的背景という理由だけで、政治家の首のすげ替えのように変更するのは、あまりに簡便で無責任な物言いである。いったい何を基準に統一するのか。その歪みや軋みが所々で現れているのは、ご覧の通りだ。さて、歴史的背景と言われれば、我々は、国家共存を前提に社会の国際化を進めてきたのではないか。国家の併存が国際社会にとって不便であると同時に不均衡をもたらすことはだれの目にも明らかである。しかし、国際社会成立の大原則として国家が今まで生きながらえてきたのには、理由があるはずだ。最後まで譲ることの出来ない何かが。越えてはならない一線が。

 国際社会の問題とは、究極的には地域のごみ出しの問題と同様、近隣住民との付き合いが発端である。高等遊民どもは、金で解決して国際人を気取っていられるのだろうが、そんな余裕はだれにでもあるわけではない。そもそも、言葉が通じない。言っても理解されない。外交官並の努力を生活に取り入れろというのはあまりに酷である。

 それでも、阿部氏の情熱は本物であると言わねばならない。この意図は東西ドイツ統一の現実をその目で見ている。それでも無理筋を通したい。